誰の痕跡なら歴史と呼べるのか
古着のコートが家に届く。ビニール袋はきちんと封がされていて、売り手は洗濯も消毒も済ませたと言う。それでも袋を開けたあと、あなたはまず少し遠ざけて持ち、匂いを嗅ぎ、それからほかのものとは分けて洗濯機に放り込む。
その一回の熱い水は、ただ汚れを落とすためだけのものではない。多くの場合、汚れなどそもそも存在しない。その服は、あなた自身のコートより清潔かもしれない。あなたが本当に洗い流したいのは、目に見えない前の持ち主の身体だ。その汗、その部屋、そのクローゼット、その人がかつてこの服の中で腕を上げ、地下鉄に押し込まれ、椅子の背にもたれたこと、あるいはただ、かつてこの中にいたという事実そのもの。
汚さが扱いにくいのは、まさにここにある。それは必ずしも証拠を持たないのに、歴史を持っている。
悪いことには、まだ語りが必要だ。ある人がなぜ過ちを犯したのか、どこが間違っていたのか、事情はあったのか、償えるのか、悔いているのか。少なくともそこには、言葉へ向かう道が一本残っている。けれど汚さは、語りを待つことが少ない。スープに一本の髪の毛が浮かんだとき、まず手が止まり、胃が軽く縮み、それからようやく思考が説明にやってくる。もしかすると、それほど深刻ではないのかもしれない。たかが髪の毛かもしれない。加熱されていて十分に安全なのかもしれない。
けれど最初の一瞬は、もう起きてしまっている。
私は、その退縮を簡単に嘲笑したくない。汚いと感じることは、まず身体が自分を守る方法だからだ。人間は、汚物を詩的に抱きしめることで生き延びてきたわけではない。手を洗うこと、排泄物を処理すること、感染源を隔離すること、食べ物と水を管理することは、実際に無数の身体を救ってきた。公衆衛生のすごさは、目に見えない伝播の経路を描き出したことにある。ハエが便所から食べ物へ飛び、指が病原菌を口へ運び、汚水がひと回りしてまた人の胃腸へ戻ってくる。
清潔さは、しばしばケアでもある。誰かが赤ん坊の哺乳瓶を煮沸し、老人のベッド脇の痰壺を洗い、台所のまな板についた生肉の血を拭き取り、病院の廊下にたった今残された吐瀉物を片づける。そうした動作は優雅ではなく、美しい比喩として書かれるのにも向いていない。けれどそれによって生活は続いていく。こうしたこまごまとした、反復的で、消毒液の匂いを帯びた労働がなければ、多くの優しさはそもそも起こる場所を持てない。
だから私は、すでに誰かに掃除してもらった部屋に立って、すべての人に今すぐ自分の防御を捨てよとは言いたくない。人が見知らぬ人の服を着たくない、有髪のスープを飲みたくない、靴で寝室に踏み込まれたくないと思うことは、理論によって裁かれる必要はない。最初の退縮は、ときにただの退縮だ。それは粗く、素早く、気高くはないかもしれない。けれど必ずしも邪悪とは限らない。
厄介なのは、その次だ。
私はその退縮をどう説明するのか。それをリスクと衛生の範囲にとどめるのか、それともさらに育てて、誰か、ある生活、ある種の身体への判断にまでしてしまうのか。
汚さは物質の状態であるだけでなく、接触の履歴でもある。あるものが、あの場所に触れた、あの匂いを帯びた、ああいう人のものだったと想像された瞬間、それはただ今ここに染みがあるだけではなく、完全には断ち切れない過去をまとっているように見えてくる。染みは目に見える。けれど接触の履歴は想像によって増殖する。目に見えないからこそ、むしろ消えたことを証明しにくい。
人類学には、よく引用される言葉がある。汚れとは、場違いな場所に置かれたものだ。泥は道の上にあれば汚くないが、ベッドの脇に来れば汚い。髪の毛は頭にあれば汚くないが、碗の中に入れば汚い。この判断は素朴に近いほど明快だ。けれど日常生活の中の汚さは、分類の誤りよりももっと粘ついている。それは単に何かが境界を越えたということではなく、ある関係が近づいてきたということなのだ。外の世界が家に入り、見知らぬ人の身体がクローゼットに入り、便所の想像が食卓に近づき、貧しさ、病、老い、労働の匂いが、私たちが維持しようとする体面に近づいてくる。
だから玄関のあの小さな場所は、とても重要になる。靴はそこで止まる。小さな税関のように。外には土埃、雨水、吸い殻、犬の尿、地下鉄のホーム、病院の廊下がある。内側には床、ベッド、子どもの手、裸足で歩けるという安心感がある。靴を脱ぐことにはもちろん衛生上の理由がある。だがそれはまた、世界を二つに切り分けてもいる。ここは横になれる場所で、あちらは警戒すべき場所なのだ。
この線を単純に消すことはできない。まったく境界のない家は、すぐに家らしくなくなる。けれど線が引かれると、そこにはひとつの誘惑が生まれる。それを自然なものとして説明し、扉の内側にいる人をより守る価値のある人とし、扉の外側にいる人をより汚染に近い人として説明してしまう誘惑だ。私たちは毎日こうした線引きをしているが、たいていそれを政治とは呼ばず、倫理とも呼ばない。ただこう言うだけだ。汚いものを持ち込まないで。
けれど、その線の外側に置かれる人もいる。
汚さが最も危険なのは、それが衛生の外衣をまといながら、しばしば社会的距離のために働くところにある。ある職業は汚いと見なされ、ある住環境は汚いと見なされ、ある食べ物、病の痕跡、古着、公共空間で疲れた姿勢もまた、その背後にいる人々ごと遠ざけられる。道徳の言葉は、少なくとも相手が行為者であることを認めている。彼は何をしたのか、なぜそうしたのか。汚物の言葉は、ときにもっと残酷だ。それは人を環境問題へと格下げする。異臭やゴミやカビの斑点のように、除去されるのを待つものへと。
多くの残酷さは、こうして起こる。自分は残酷だとは言わず、ただきれい好きなのだと言う。誰かを見下しているとは言わず、ただあの匂いが耐えられないのだと言う。ある生活を排除しているとは認めず、ただここは少し片づけるべきだと言う。
とはいえ反対に、混ざり合うことをただ称賛するのも軽すぎる。汚いものは、私たちが倫理的な光輪を付けたからといって無害になるわけではない。介護者は傷口を清潔にしなければならないことを知っている。料理人は生と加熱済みのものを分けなければならないことを知っている。免疫力の低い人は、境界が偏見ではなく、生き延びるための条件であることを知っている。社会がそれらを忘れれば、最も脆弱な人を、最もロマンティックな人に傷つけさせることになる。
これが、私が多くの美しい批判にためらいを覚える理由でもある。それらは時に、境界を壊すことを急ぎすぎる。境界は排除のためだけに存在するわけではない、ということを忘れてしまう。病院のあの手袋、台所の分けられたまな板、感染症の時期の少し気まずい距離。それらは、階級的趣味や潔癖症のレトリックだけで完全に説明できるものではない。境界は冷酷でありうるし、命を救うこともある。人を辱めることもあれば、感染に耐えられない人を守ることもある。
問題は、境界が必要かどうかではない。境界のあとに、見分けることがあるかどうかだ。
身体は倫理より速い。匂いは概念より速い。恐れは同情より速い。私たちは静かな教室で汚れを判断しているのではない。匂いを嗅ぎ、汚れを見て、指先が粘つくドアノブに触れたその一秒に反応している。その一秒は短い。複雑さを許さないほど短い。だからこそ、それはとりわけ簡単に借りられてしまう。広告はそれを借りて、本当に体面のある人間には汗も毛穴も台所の油煙もあってはならないと告げる。都市管理はそれを借りて、ある種の露店商、廃品回収者、ベンチで眠る人々を都市景観の問題として語る。日常の偏見もそれを借りて、見知らぬ人の生活をひとつの匂い、ひとつの染み、近づきたくない一着の服へと圧縮する。
そのとき、使い込まれた艶と嫌悪との距離は、ふいにひどく薄く見える。
アンティーク家具についた手の跡は時間と呼ばれうる。銅器の暗くなった表面は歴史と呼ばれうる。古書のカビ臭さはアーカイブ感と呼ばれうる。古本屋の埃、木の棚のほの暗い香り、ヴィンテージ店で意図的に焚かれた香も、過去を近づけて、買うことのできる雰囲気へと包装する。けれど見知らぬ人の汗の匂い、賃貸部屋のマットレスのへこみ、古着の襟元にある出所の分からない黄ばみには、同じ物語を持つことがなかなか許されない。
どれも古い。違いは、誰の身体の残留なら歴史と呼ばれ、誰の身体の残留ならただ汚いと呼ばれるのか、ということにある。
古いものは、制度、審美、物語、価格、あるいは階層によって再包装されて初めて、汚染から年代の趣へと変わる機会を得る。そうでなければ、それはただ他人の生活が残した残滓でしかない。私たちは時間を好む。けれど時間が本当に身体を通過した姿を好むとは限らない。私たちは歴史を好む。けれど多くの場合、その歴史は磨かれ、脱臭され、額装されていてほしい。できれば前の人の脇の下、台所、病床、スリッパの音を連れてこないでほしい。
これは、すべての残留が保存に値するという意味ではない。すべての洗浄が暴力だという意味でもない。美術修復には、抑制を促すひとつの注意がある。清掃は、いつも回復であるとは限らない。堆積、酸化、古い補修、使用の痕跡のいくつかは、すでに物の皮膚の一部になっている。過度な清掃は、それを原初に戻すのではなく、その生命史を拭い去ることかもしれない。この理屈を日常生活に戻すと、不安になる。私たちはいったい何を洗い流したいのだろう。細菌か、匂いか、リスクか、それともそのものがかつて他人のものだったという事実か。
新品同様と言うとき、私たちはときに一種の忘却を称賛している。
清潔な空間もまた、空から降ってくるように清潔なわけではない。オフィスビルのトイレの扉の裏には清掃シフト表があり、ショッピングモールが開く前にはモップがタイルの上を押され、夜明け前にはゴミ収集車が団地の裏口を通っていく。ゴミは消えたのではなく、運び去られただけだ。汚水は消えたのではなく、管の中に入っただけだ。匂いは消えたのではなく、より見えにくい誰かに割り振られただけだ。
ある場所が明るく、無臭で、拭きたてのように見えれば見えるほど、その背後にある接触の労働は見えなくなりやすい。清潔とは、時に汚れがないことではなく、汚れが別の場所へ移され、別の誰かの手、別の誰かの肺、別の誰かの未明に割り当てられたということだ。私たちは光る床を踏みながら、その光沢もまた接触の履歴であることをほとんど考えない。ただ、その履歴の持ち主の名前が拭き取られているだけなのだ。
そのことが、私に清潔さへのためらいを含んだ敬意を抱かせる。清潔は、単純に称賛できる言葉ではない。気軽に批判できる言葉でもない。それはケアであり、排除でもある。身体を守り、体面を守ってしまうこともある。現実のリスクを処理しつつ、認めたくない隣接関係を遠ざけることもある。むしろそれは、日常の見分けの術に近い。拭く、洗う、隔離する、捨てる、その前に、自分がいったい何を処理しているのかをできるだけ確かめることを人に求める。
私はなお、汚さをロマン化したくない。スープの髪の毛はやはり食欲を失わせるし、公衆衛生には依然として境界が必要だ。介護と食の安全は、寛容だけでは解決できない。洗うべきものはある。捨てるべきものはある。消毒すべき場所はある。世界は、姿勢だけできれいになるわけではない。
けれど私は、あまりに素早い清潔感をますます疑うようにもなっている。それは複雑な関係をひとつの身体反射へと圧縮し、人を理解する前に半歩退かせる。さらに悪いことに、それはしばしば、半歩退いた時点でもう事は終わったのだと人に思わせる。
成熟した清潔さとは、おそらくすべての痕跡を消し去ることではなく、区別することなのだろう。どれが本当に身体を傷つけるものなのか。どれがただ、体面についての私たちの想像を傷つけただけなのか。どの境界が脆弱な人を守っているのか。どの境界がただ、脆弱な人を戸口の外に締め出しているだけなのか。どの汚れは洗い流されるべきで、どの汚れはむしろ、世界は消毒棚から生まれたのではないと私たちに思い出させているのか。
けれどこの区別は安定しない。眉をひそめるたびに、正確な判断を下すことは難しい。私に思いつく方法は美しくない。ただ、少し遅くすることだ。最初の反応は起こるにまかせる。けれどそれをすぐに真理として封じ込めない。手には手を洗わせる。けれど目には、急いで誰かを染みとして見させない。
洗濯機の中で古着のコートが何度も回っている。水は濁り、そして排水されていく。服はより受け入れやすいものになるだろう。それはよいことだ。私たちには確かに、そうした手順が必要なのだから。ただ私は、スタートボタンを押したあと、もう一秒だけ立ち止まって考えられる自分でありたい。さっき私は、いったい何を洗い流したかったのだろう。
病か、リスクか、匂いか、他人の身体か、それとも私が認めたくない何らかの隣接か。
最初の退縮は、なくせないのかもしれない。けれど退縮のあとの二度目の判断は、なお私たち自身が引き受けるべきものだ。