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足元のわずかな高さ

数インチの高さが、一つの言葉をより真実にするわけではない。けれどそれは、ある身体に突然、資格の説明を求めさせる。街角のソープボックスは、もともとはただの箱だった。角には埃がつき、木板は靴底に踏まれて黒ずんでいる。誰かがそこへ乗ると、箱はかすかに揺れ、通行人の目はまずその人の靴底に落ちる。都市が判断し始めるのは、しばしばまだ意見そのものではない。なぜこの人は他人より少し高いところに立ってよいのか。彼は演説者なのか、それとも道をふさぐ者なのか。悪い女なのか、それとも引きずり下ろされるべき厄介者なのか。

soapbox の魅力は、それが平等な発言を保証するところにはない。あまりに軽く、いつでも運び去られてしまう。編集者も、座席表も、入場券もなく、あらかじめ人を選別してはくれない。それはただ、普通の身体を一時的に群衆の上へ持ち上げ、一つの言葉を交差点へ落とすだけだ。足を止める人がいる。避けて通る人がいる。車輪はそばを踏み過ぎ、巡査の手は警棒にかかる。公共の発言は、はじめから澄んでいるわけではない。まずそれは、揺れる木板であり、許されるか、あるいは耐えられる、ほんの少しの高さなのだ。

シカゴの Bughouse Square は、まだ公共意見とは呼びにくい多くの声に、ひとまず立つ場所を与えた。うまく話す者もいれば、話をまとめられない者もいた。説教、怪談、詩、急進的なスローガンが、同じ空気の中に押し込まれていた。だが箱は決して優しくない。Elizabeth Gurley Flynn は、まだとても若いころから街頭で演説し、のちには妊娠したまま、木こりたちと職業紹介所のあいだに立った。男性の演説者は危険な扇動者と呼ばれがちだった。女性がそこへ立てば、その前にまず、まともな女なのかと問いただされた。数インチの高さは身体を消し去らなかった。むしろ服、年齢、腹部、立ち姿を、見知らぬ人々の目に差し出した。

街角の声は、声量だけで届くわけでもない。IWW の自由演説闘争では、人々が別の都市からやって来て、一人また一人と箱の上に立ち、逮捕されると、次の者がその場所を埋めた。監獄を満たせ、という言葉はスローガンのように聞こえるが、実際には冷たく硬い身体の算術だった。誰かがその場に来なければならない。誰かが引きずり去られることを受け入れなければならない。そうでなければ、沈黙はたちまち閉じてしまう。サンディエゴのあの時、暴徒は鉄道を押さえ、駆けつけた演説者たちを負傷させ、郡境の外へ追いやった。街角がふたたび静かになったのは、ある論点が負けたからではない。身体が街に入れなくなったからだった。

とはいえ、箱をあまり清潔なものとして考えることもできない。その上で語られる言葉が、生まれながらにより正義に近いわけではない。そこには粗暴さ、迷信、侮辱、見せ物にしたい欲望もある。箱は機会をつくると同時に、局所的な強制もつくる。高く立つ者は、周囲の耳を少しそちらへ引き寄せてしまう。交差点を通り抜けたいだけの人も、肩の輪に行く手を阻まれる。自由に反対しているわけではなく、ただパンを買いに行く途中で、見知らぬ人の怒りに遮られたくない人もいる。けれど、まさにこの居心地の悪さの中で、判断ははっきりしてくる。誰がすぐに引きずり下ろされるのか。誰がしぶしぶであれ最後まで聞かれるのか。都市の秩序は憲章にだけ書かれているのではない。木板が揺れるとき、いくつかの手が伸びてくるのか、こないのか、そこにも書かれている。

やがて箱は運び去られ、路面はふたたび平らになる。車輪が通り過ぎ、見物していた人々はそれぞれの道へ戻り、木板は跡を残さない。ただ、その場所にはもう、誰かが高く立ったことがある。数インチ。それだけで、普通の歩道をつかのま普通でないものにするには十分だった。