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脚注が空気を指す

リンク切れでいちばん厄介なのは、私たちが一ページ読めなくなることではない。それがなおも、ある一文の証人であることを求められ続けることだ。脚注はページの下に残り、番号も、URL も、あの少しの青色もまだそこにある。それは信頼できる身振りのように見え、本文のためにどこかを指し示している。壊れているのは文字列ではなく、一文が出どころを説明するやり方のほうなのだ。

十年前のある報道の中で、ひとつの数字の後ろに脚注が付いている。ページ下部には、それは政府の告示だとか、ある人物がかつて公開した声明だとか書かれている。本文は落ち着き払っていて、番号をたどって下へ行けば、事実はその背後の支えを見せてくれるかのようだ。読者がカーソルを重ねると、ポインタは手の形に変わる。クリックすると、ブラウザは短い返事だけを返してくる。見つかりません。

この短い返事は、あまりにも多くを省略している。ページが移転したのか、サーバーの設定が間違っているのか、内容が取り下げられたのか、所有者がもう公開したくないのか。読者の目に映るのは、しばしば同じ不在だ。けれど、それらの不在は同じではない。移転なら新しい住所を探せるかもしれないし、設定ミスなら直せるかもしれない。取り下げなら、元の言葉を以前のまま信じてはいけないということかもしれない。公開拒否はさらに面倒で、その中にはプライバシーや安全、あるいは表に出しづらい何らかの圧力があるのかもしれない。

だから私は、あらゆるウェブページを琥珀に閉じ込めようとする衝動をあまり信じていない。手放されるべきページもあるし、古い名前の中には検索結果から離れたほうがよいものもある。小さなサイトが止まったとしても、自分の衰退をわざわざ告知として整理する必要はない。保存はときに拘束にもなる。その場限りの言葉や、後になって悔やまれた写真を、当時より硬い壁に打ちつけてしまう。

問題は別のところにある。ある資料がまだ引用され、訂正され、出典の説明を求められているのに、沈黙だけが残っている場合だ。後から来た人は、本来ただひとつの数字やひとつの引用がどこから来たのかを確かめたかっただけなのに、返ってくるのは答えでも拒絶でもなく、署名のない不在である。訂正は、古い言葉が有効であり続けることを求めない。ただ、それがすでに変わったのだと後の人に分かることを求める。取り下げも、内容をすべて広げて見せる必要はない。少なくともひとつの境界を残すことはできる。この言葉はここに来たことがあり、今はもう元のまま使うことはできない、と。

リンクは住所のように見えるが、実際には更新料、移転、リダイレクトによって一時的に成り立っている。古い経路に誰かが新しい経路をつなぐからこそ、それはずっと動いていないように見える。私たちは開けることを安定と見なし、開けないことを壊れたと見なすことに慣れている。けれど安定とは、たいてい維持の動作がまだ表に出ていないだけだ。あるページがそこに残っていることは、それが生まれつき信頼できるという意味ではない。ただ、それがまだ誰か、何らかの制度、切れていない請求書によって支えられているというだけなのだ。

さらに厄介なのは、404 でさえない場合だ。ページが開けるからといって、なお証人になれるとは限らない。あるリンクは通路の形を保ったまま、その通路の先にあるものをすり替えている。読者は順調に到着するからこそ、自分がすでに元の場所にいないことに気づきにくい。そう考えると、404 はときにむしろ正直だ。少なくとも、その関係がまだ成り立っているふりはしていない。

脚注はページの下に残り、青色はまだ光っている。それが指しているのは空白ではなく、説明されないままの変化なのだ。