推測してはいけない色がある
古い映画には、色が戻ることを必要とするものがある。退色が、その映画の代わりに間違ったことを語ってしまうからだ。けれど、戻してはいけない色もある。美しさもまた、人を欺く。さらに刺さるのは、色を補うべきかどうかだけではない。より古い素材、より汚れのない画面、源により近い光でさえ、当時のあの鑑賞からは少し遠ざかることがある。
色は収蔵庫に眠る遺失物ではない。暗がりに鍵をかけてしまわれ、後の人が扉を開けるのを待っている何かではない。白黒のポジフィルムを灯りの下に広げ、筆がゼラチンへ染料を運ぶ。それは過去から一片の色を取り戻すことではなく、きわめて具体的な動作だった。手首が一瞬止まり、筆先が押し当てられる。赤は袖口をわずかにはみ出すかもしれないし、炎の縁も必ずしも炎のところでぴたりと止まるわけではない。同じ一本の映画でも、プリントが違えば色は完全には一致しない。後の人が向き合っているのは、過去の中に安らかに横たわる赤、青、黄の一層ではない。
そもそも、物体にぴたりと寄り添って動くわけではない色もある。青は夜であり、赤は火であり、黄は蝋燭の光である。色はときに、その物が本来何色だったかを説明するのではなく、夜がどのように降りてくるか、火がどのように突然入り込むかを説明する。危険を速くし、一つの灯りを暖かくし、視線をある方向へ連れていく。私たちは一着の服が何色であるべきかを問うているつもりで、実はその場面全体がどのように感じられるべきかを問うているのかもしれない。
あの粉がかった紫は、時代感に化けるのがうまい。古いフィルムがああした色に傾くと、まるで自動的に柔らかな古さが生えたように見える。時間そのものが、画面の音量を下げてくれたかのように。多くの場合、先に退場したのはシアンと黄で、残った色がフィルム全体の代弁をしている。その残色を過去の顔だとみなすことは、鮮やかな色を一層補うことより、決して確かとは言えない。手を加えないこともまた、損傷に過去を語り続けさせているだけかもしれない。
しかし画面をより明るく、より鮮明に修復したからといって、自動的に近づくわけでもない。鮮明さは、ときに暗部の階調を救い戻し、一つの顔をふたたび影から分けてくれる。だがそれは同時に、縁を前へ押し出してしまう。鋭すぎるネガは、ワイヤーや継ぎ目、セットの端を映し出す。それらは当時もそこにあった。ただ普通のプリントと投映距離の中では、そんなふうに目へ入ってこなかったのだ。後から生じたものではない。ただ当時は、そのようには見られていなかった。
観客がかつて見た映画とは、ネガに何が写っているかだけではない。粒子、距離、そして十分に明瞭ではない輪郭によって、どのようなものが脇に留め置かれていたかも含んでいる。一本の線、一本のワイヤー、一つの継ぎ目は、ネガの上では早くから存在していても、観客の経験の中ではずっと遅く、あるいはついに到達しなかったのかもしれない。
だから、なお戻ってこない色がある。画面は灰色のままだ。灰色が勝ったのではない。その温度が、スクリーンの上で欠けている。恋しさでは、それを調整して戻すことはできない。