急いでそれを誠実にしてしまわない
いちばん早く飛び出してくるものは、必ずしも嘲笑ではない。時には痛ましさだ。高音が割れる半秒のあいだ、息がまだ落ちきらないうちに、私たちは心の中でその声に一言を補ってしまう。彼は本気なのだ、と。声を出して笑うよりは少しましだけれど、それでもまだ十分に遅くない。
あの一瞬の声へ戻ってみる。母音は薄く押しつぶされ、息の通り道は狭まり、声は短く別の軌道へ跳ね、空気が一拍ぶん欠ける。まず声があるのであって、結論ではない。それはまだ一人の人間を説明するところまで来ていない。ただ一息をとても狭い場所へ押し込み、しかも完全には通り抜けなかっただけだ。
けれど私たちは、その中に努力を聞き取るのがとても好きだ。同じひと言でも、本当に力を込めていることもあれば、力を込めているふりをしていることもあり、力を込めながらそれを隠そうとしていることもある。聞く側は時に、なぜかそのふりのほうを信じてしまう。ごく小さな震えだけで、「彼はすごく力を込めている」が浮かび上がる。その震えは、嘘をついているとは限らないし、打ち明けているとも限らない。ただ、私たちになじみのある判断を先に動かしてしまうのだ。ここには持ちこたえがあり、もう少しで持ちこたえられなくなりそうなものがある。だからここには本当があるはずだ、と。
声が頂点まで強くなると、意味はかえってぼやける。私たちは強度を聞くけれど、それが何を言っているのかまでは聞いていないかもしれない。聞こえていないのではなく、身体がそれを歌い返していない音もある。耳は届いているのに、喉と動きが一緒には届いていない。ひとつの回路がつながっていない。それをすぐに「彼は本気なのだ」という一文へ戻してしまう必要はない。この文は見栄えがよくない。けれど、声の割れを喉の中に、動きの中に、つながらなかった回路の中に留めておくことができる。
裂け目の中には技術であるものもあり、なめらかさの中には労働やスタイルであるものもある。息がまだ落ちきらないうちは、先に補って完成させないでおく。その一瞬を、半秒だけ聞きづらいままにしておく。私たちはこらえて、心の中でそれに理由を足さない。