メインコンテンツへスキップ

あるものは動詞にしか身を預けない

一本の海岸線は、ときに断たれることで存在しつづける。Cape Cod の砂嘴は嵐に切り開かれ、古い接続は途切れる。しばらくすると、砂と波がまた別の場所で新しい接続を一部押し戻してくる。前の場所はなお断たれたままで、後の場所も元どおりに戻ったわけではない。それらは互いを打ち消せず、ただ同じ海岸の上に同時に残っている。

何年も隔てた衛星画像のなかで、砂州は持ち上げられ、押し流され、引き裂かれ、また別の場所でつながる。入り口が開き、古い道が途切れ、浜はゆっくりと内陸へ移っていく。このすべてを一本の線と呼ぶには、もう早すぎる。さらに厄介なのは、物差しが短いほど海岸は長くなることだ。入り江も、切れ目も、湿った砂の縁も数え込まれる。長さは、測り方の姿勢からその一部を借りている。

このとき、なお「万物は物語を語っている」と言うなら、危うさが見えてくる。物語はしばしば動詞を名詞へ押し戻す。まだ移りつつある境界を消失と呼び、別の場所で仮につながった砂を回復と呼ぶ。過程に早すぎる結末を与え、私たちがそれを、すでに終わった出来事を振り返るように眺められるようにしてしまう。

けれど、私も物語をまるごと追い払うことはできない。気候研究における storylines は、ときにまさに条件の連鎖である。もしこれらの駆動因が同時に成り立つなら、水、嵐、リスクはどのように重なっていくのか。それらは未来を丸く語り閉じるのではなく、偽の精確さをもつ一つの数字で未来を安定して収めることを拒むだけだ。

問題は語るべきかどうかではなく、叙述が条件を残しているかどうかにある。嵐はすでに過ぎ去った句点ではないし、砂も海岸の傷を消すための消しゴムではない。古い開口部はまだそこにあり、新しい砂もまた押し寄せてくる。水位、風向き、波、そして次の嵐が、なおそれらの関係を書き換える。よい叙述は、これらの動きにもっと居心地のよい名詞を探してやるのではなく、それらがぶつかりつづけるままにする。

いくつかの切れ目は、のちに砂でふさがれる。いくつかは残る。浜はまだ内陸へ移りつづけている。