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十秒後、慎重さは変質しはじめる

片方の手が、首の横で少し長く止まっていた。はっきりした脈に触れられず、もうひとつ反響を待とうとしている。もう片方の手は、突発的な故障の中でまずこわばり、それから、触れてはいけない場所へほとんど触れかけた。その一瞬は、あとになってどこから来たのかを振り返らなければならなくなる。

救急訓練における十秒は短い。人が恐怖と、起こりうる誤りとを切り分けるには、短すぎる。はっきりした脈が取れないとき、確認をいつまでも引き延ばすことはできない。指が余分に止まる少しの時間は、一見すると慎重さに見える。けれどその少しの時間は空白ではない。他人の胸郭の中で過ぎている。身体が答えを返せないのに、手はまだ答えを求めている。遅さはもう、他人の呼吸を費やしはじめている。

この言い方は耳に心地よくない。私たちは、もう少し待つことを、より体裁のよい側に置きがちだ。火が消えたかどうかをもう一度見るように、相手の話を最後まで聞いてから答えるように。けれど、そういう余裕のない場所がある。相手はもう、あなたのために確かさを補ってはくれない。そこに止まり続けるなら、自分の不確かさは場所を移し、別の身体の中へ置かれることになる。

突発的な故障が来たとき、手も必ずしも頼りになるとは限らない。こわばることもあるし、先に間違ったものへ触れることもある。出来事がなだれ込んでくると、身体はすでにそれにひとつの方向を見つけてしまっている。判断が追いつくころには、手はもう前に出ている。その一瞬は、すでに伸びてしまっている。説明はまだ、その後ろを追いかけている。

それでもその一瞬を少しだけ信じる価値があるとすれば、そこには、訂正された過去が伴っていなければならない。伸ばし間違えたことがあり、引き戻されたことがある。あるとき、隣の人に手首を払われて、そこには下ろしてはいけないのだと知る。練習もまた、悪いかたちに固まることがある。ただ、一度も訂正されたことのない速さは、驚きが身体の代わりに伸ばした手に、より近い。

十秒を過ぎたら、指はもうその身体に反響を求めてはいけない。手の付け根を下ろす。自分が間違うかもしれないことを、なお知らないままだ。ただ、その知らなさを、これ以上他人の呼吸の中に置き続けることはできない。