植物の代わりに叫ばない
植物が叫んでいる。この文は、あまりにも早く間違える。音を扱う前に、もう音に喉を取りつけてしまっているからだ。乾燥や切断のストレス下で、植物が空気中を伝わる超音波を発することはたしかにありうる。およそ二十から百キロヘルツのあいだだ。問題は音があるかどうかではない。私たちが音を聞いたとたん、力を受けた出来事を、急いで表現の出来事として聞こうとしてしまうことにある。
その性急さも、まったく滑稽というわけではない。「叫ぶ」と言えば、人は少し立ち止まる。温室にあるあのなめらかな静けさに裂け目を入れ、一株の植物を、もはや背景や装飾や収量や緑としてだけではなくする。粗い比喩が、注意をこちらへ引き寄せることはたしかにある。厄介なのは、それが近くへ引き寄せすぎること、そしてあまりにも人間に似せすぎることだ。出来事に喉を一つあてがえば、配慮はもっと正確になるのだと、私たちに思わせてしまう。
人が温室に立っていても、耳に聞こえるのはやはり静けさだ。マイクが記録した音は、人間の耳の範囲まで下げられてはじめて、短いクリック音のように、ポップコーンがふいに数粒はじけるように聞こえる。その clicks でさえ、すでに移動させられた版である。まず記録され、つぎに周波数を下げられ、最後に人の耳が受け止められる場所へ置かれる。聞こえることは原音への到達ではなく、ただ一度の運搬が成功したということにすぎない。
「叫ぶ」は与えすぎている。それは音を喉と意図のほうへ押しやり、音があるなら、かならずどこかに話している中心があるかのようにしてしまう。けれどこれらの音は、木部の水柱の中で気泡が生じたり破れたりすることと関係しているのかもしれない。音は、話したがっている場所から出てくるのではない。植物の体内のどこかで、引き張られ、中断された流れの中から湧き出てくるのだ。それを「音響放出」と呼ぶほうが正確だ。この名前は音を口元から引き離し、管腔、水柱、気泡、そして力を受けた出来事のもとへ戻してくれる。
機械は音の一部を、乾燥、切断、正常状態といった分類へ振り分けることができる。状態は重要であり、行動を変えるには十分だ。だが分類は翻訳ではない。それが出力するのは状態であって、台詞ではない。温室はなお、完全に静かではない。ただ、周波数を下げられたあの一連のクリック音は、それでも一つの言葉ではない。